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周荘(周庄)
〔zhouzhuang〕


周荘は上海から約70キロ、車で約1時間20分程度のところに位置する。上海から見れば、ちょうど淀山湖の裏側になる。

900年の歴史を持ち、かつては江南の水運、商業の要衝として栄えた街である。現在の水路は生活にも使われているためやや汚染されているのが残念だが、濠と古い家並みと石橋とがこじんまりとまとまっており、―片の碧玉にも例えられる美しい街並みであり、「上有天堂、下有蘇杭(天上には極楽があり、地上には蘇州、杭州がある)」という有名な言葉をもじって「上有天堂、下有蘇杭、中間有一箇周荘(天上には極楽があり、地上には蘇州、杭州があり、中間には周荘がある)」と言われることもあるそうだ。

見所は200年以上も前の街並みが往事の姿そのままに残っていることに尽きる。街中の細い通路をめぐり、豪商の屋敷を訪ね、石橋から水路を望めば、かつて大いに繁栄した中世中国の水郷都市へタイムスリップすることができる。

上海で2泊以上する場合は訪れてみたい観光スポットである。周荘だけなら半日で観光できるが、淀山湖畔の大観園観光やすぐそばに位置する上海ウェストゴルフクラブでのラウンドを合わせれば、丸一日楽しむことができる。

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周荘の歴史

古来この地域は貞富里と呼ばれたが、周荘という名が歴史に始めて現れるのは、今をさかのぽること900年、北宋時代の元祐元年(西暦1086年)である。当時周迪功郎という人が仏教ヘの篤い信心から、自分の邸宅を寺として提供し、さらにこの地域に開墾した田200ムー(約13ヘクタール)を寺に荘田として寄進したところ、人々が大変感謝したので、その荘田が周迪功郎の名をとって周荘と呼ばれるようになったという。

その後元代中期になって、瀋祐という人がこの地に拠点を構え、その子の瀋万三が当主であったころ多いに栄え、江南の大富豪として知られるようになる。瀋万三は西に延びる白蜆江により京杭大運河へ、東に延びる瀏河により海につながるという交通の要衝としての位置を活かし交易を行い、周荘を食料、シルク、各種手工業品の集散地として発展させた。周荘は手工業品生産地としても発展し、シルク、刺繍、竹製品、白酒等が生産された。

明、清代に街がさらに拡大し江南地方の重要都市の一つとなる。商人が集まり人□が増加、明代初めには人口は約2000人、清代康熙年間には約3000人にまで拡大した。なお、このころまでこの地は正式には「貞富里」という名称のままであったが、清の康熙年元年に正式に周荘に改称された。

周荘の古い街並み

豪商の家がいくつか開放されている。建物は様式的には、当時の江南の特徴的な建築様式であった徽州、蘇州、紹興の様式を取り入れた独特のものであるとされる。調査によれば家屋の60%は明及ぴ清時代のものである。

周荘の敷地内へは無料で自由に出入りできるが、建物に入るにはチケットが必要。バス停の前で、瀋家、全福寺、周荘博物館、葉楚イ倉故居等見所すべてがセットになったチケットを30元で売っている。運転していった場合、10元で買う駐車券で一人だけ各建物に入ることができる。

*瀋家

瀋家は、その名の通り江南の豪商瀋家が住居として建てたもの。年代的には新しく、清代の乾隆7年(西暦1742年)に完成した。清代の「周荘鎮史」によれば、当時の瀋家の当主瀋本仁は放蕩息子であったが、父の死後心機一転農業につとめ蓄財しこの家を建てた。

濠から奥に向かって細長く延びた2000平米強の敷地(間□約20m×奥行き約100m)の中に7つの中庭を持つ建物と5つの門が直線的に配置されており、その部屋数は大小合わせて100室を超える。往時の瀋家の繁栄ぷりを窺うことができる。

入口は水路に面し、建物を入ってすぐの部分は客を接遇したり冠婚葬祭に仕様する区域。建物奥は居住空間である。メインルームである松茂堂は龍、麒麟、鶴、鳳の彫刻を施された梁と柱が目を引く。この部屋の正面の彫刻レンガの門は5つの門のうちで最も荘厳なものである。彫刻は蘇式の傑作。

*張家

明代の中山王徐達の弟徐逵の子孫が明の正統年間に建設した。清初に売却され張家の所有となった。

明代の建築物。明代の寺院や塔は中国国内にいくつか残っているが、住居は非常に少なく、このため考古学的に、かつ古建築研究にとって大変貴重なものだという。

6つの中庭を持つ建物で構成され、約70の部屋を持つ。建物の中を水路が流れ「車が前門から入り、船が家の中を通る」と表現される。水郷建築の典型である。

*迷楼

迷楼は小さな建物だが、1920年に文学結社「南社」(注)のメンバー、柳亜子、王大覚、陳去病らが秘密裏に会合し、詩を詠み、革命について語り合ったことで有名となっている。この建物は当時「徳記酒店」という名称だったが、南社のメンバーが酔って「酒不酔人、人自酔、風景宜人亦迷人」という詩をつくり「迷楼」という名を店主に贈って以来一般に迷楼と呼ばれるようになった。柳亜子らの詩140余首が「迷楼集」としてまとめられ公表されてから迷楼が世間に有名になることとなった。

迷楼は2階建てで、南社メンバーの写真や著作・絵等の作品が展示されている。2階の1角には酒を飲みながら語り合う南社メンバーの蝋人形がある。1階には蘇曼殊による「汾提吊夢図」という絵が掛けられている。蘇曼殊は日本に3年間美術留学をし、書画芸術に造詣が深かったが、自己の作品をなかなか人に贈らないことで有名だった。「汾提吊夢図」は葉楚イ倉が蘇曼殊を冗談に部屋に閉じ込めて無理に描かせたものと言われる。

(注:南社の精神を示す「南社条例」第1条は「本社は文学研究と気骨精神の提唱を旨とする」としている。「気骨精神」とは、資産階級民族主義の堅持、満清民族による圧政反対、袁世凱による帝政復帰反対、封建的軍閥主義反対等を指す)

*葉楚イ倉故居

国民党元老の葉楚イ倉が住んだ家。清代の同治年間に建築された。4つの中庭を持つ建物で構成される清式の家屋である。葉楚イ倉の肖像画、著作等が展示されており、家具は清・中華民国時代のもの。

葉楚イ倉(1887~1946年)は、南社の詩人であり政治活動家。孫文主義に共鳴、中国同盟会(1905年に孫文のイニシアチィブで結成された革命団体)に参加、辛亥革命に従軍した。その後上海で新聞「民国日報」の出版に従事した。

入口近くの部屋は葉が子供の頃の勉強部屋で、後ろの部屋は客間で南社メンバーの柳亜子や蘇曼殊らと酒を飲みながら即興の詩を読み、語り合った部屋と言われる。

*澄虚道院

宋代元祐年間(1086~1093年)に建てられた道教寺院。宋代の建築様式を残している。清初の詩人張冷作の詩「重過澄虚道院詩」は、「幽深福地似蓬莱(幽玄で蓬莱の地のようだ(蓬莱:伝説上の東方の仙人の住む霊山))」と表現しこの寺を有名にした。

中国解放まで澄虚道院は道教寺院として隆盛した。解放後は一時的に食料庫、工場、旅館とされたこともあったが、建物は昔の姿を留めることができた。

全福寺

言伝えによれば、もともとの全福寺は宋代元祐年代に周荘北西の白蜆湖畔に建てられた。もとは周迪功郎の邸宅だったが、信仰への篤さから、彼が自らの家を寺としたもの。全福寺は拡張され、重さ1500キロの鐘や江南一巨大な如来像もあったという。しかし1950年代初期に食料庫に改造され、寺内の仏像、経典等は損失してしまった。その後90年代に南湖畔に遷され、新たに仏像等も置かれ現在に至る。

「水中の仏の国」とも呼ばれるこの寺は、湖上に橋でつながれ並ぶ「山門」「指帰閣」「大雄宝殿」「蔵経楼」等より形成される。メインとなるのは大雄宝殿で、中央は釈迦牟尼像、両側は獅子に跨る文殊と象に跨る普賢像である。

石橋

街中にある14座の石橋は元、明、清の3代の間に造られたものである。

*双橋

東西に掛る世徳橋と、世徳橋に直角につながる永安橋とを合わせて双橋と呼ばれる。古代のカギのような形であることからカギ橋とも呼ばれる。明の万歴年間(1573~1619年)に建設され、1765年、1843年、1957年にそれぞれ修築されている。東西に架かる橋は石積みのア―チ橋、南北に架かる橋は梁状に石材を渡したものであり、二つの異なるタイプの橋が見事に調和している。

この橋を描いた絵が周荘を世界的に有名にした。1984年、ニューヨーク留学中の上海人画家陳逸飛が双橋を素材に描き「メモリー・オブ・ホームタウン」と名づけた。同年10月、この絵は彼の他の37の作品といっしょにアメリカ・ウェスタン石油のCEO、Amed Harmonの画廊に展示された。油絵と水墨画の手法を用い江南の田園と水郷風景を描いた陳逸飛の作品は芸術専門誌に「ウェスタンスタイルへの大胆な挑戦」と紹介される等注目を集めるようになった。11月にHarmonが訪中した際、Harmonが{ケ小平に「メモリー・オブ・ホームタウン」を進呈する。翌85年には、「メモリー・オブ・ホームタウン」は国連が毎年発行する6種の記念切手の初日カバーのデザインに選ばれるに至る。

この橋は周荘一番のピクチャレスクな場所となっており、橋を描く人や撮影する人が多数見られる。

*富安橋

石積みのア-チ橋で、1355年に建造され、1478年、1522年、1855年に修築されている。東西は階段状で中央は平坦になっており浮き彫りが施されている。橋のたもとの角それぞれには橋楼と呼ばれる建物が建っているのが珍しいとされる。浙江省の徳清県の山からとれる耐久性の高い武康石が、東に1つ、橋の階段部分に1つ、西に3つの計5つ残っている。

周荘の水路を船で巡る

水路を巡る船には是非乗ろう。瀋家の前から北へ向かい双橋、全功橋をくぐり、蜆江橋前でUターン、再び双橋をくぐってすぐに右折し、太平橋、青龍橋をくぐり、周荘博物館の前に着岸する。一艘60元。のんびりと水郷めぐりを楽しめる。頼めば櫓を漕がせてもらえる。

周荘博物館

明代初めの建築物。当地の出土品、民俗芸術品、生活用品、合計約1000点を展示している。

阿婆茶で一服

観光に疲れたら水路沿いの露天で阿婆茶を飲むのもいいだろう。阿婆茶は周荘の人々が好んで飲む茶で、かつて60~70才前後の女性が集まってよく飲んだことからこの名がついたそうだ。

周荘への行き方

周荘へは車をチャーターして行くのがいいだろう。タクシーを利用する場合は事前に料金の交渉をしよう。メーターを倒して行けば片道300元程度だが、交渉すれば往復で少し安くなるはず。

行き方は、虹橋空港のすぐそばから西へ延びる滬青平高速公路で青浦方面へ行き、朱楓公路出口で出る。右折してすぐの滬青平公路(国道318号線)でさらに西へ行く(左折)と右手に淀山湖が見えてくる。淀山湖が見えてから5分程先の交差点を大観園方面へ右折。さらに10分程走ったところにある町の交差点を周荘の看板に従って左折。あとは道なりに10分程走り橋を越えると周荘につく。バス停のところで入場券と駐車券を買う。なお周荘の中心地は車の乗り入れはできない。

もちろん上海市内からバスの便もあり、長距離バスや定期観光バスなども運行されているが本数が少なく観光客の足として使いやすいとは言い難い。

上海市内からのバス

上海長途汽車客運南站:91キロ 29元 08:15発 13:20発

上海白蓮涇汽車站:91キロ 29元 07:40発 12:50発

上海長途汽車客運総站:91キロ 29元 08:00発 10:00発 12:00発 15:40発 16:50発


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