ユダヤ人系のSassoon家はバグダットで商売を行っていた。そこからインドに移り、Sassoon洋行を開設し、イギリスの紡績品とインドのアヘンを中国に販売し、巨大な富を築いていた。その結果、イギリス国籍の取得に成功し、さらにAlberr Adbullah Sassoonの代になると、イギリス王室から爵位を受けるなどし、Sassoon 家はますますその地位を確固なものにしていく。そして中国でアヘンの売買がますます盛んになるなかで、Elias David Sassoonの代になると1877年に上海に本格的に進出、年間5000箱ものアヘンを売りさばいていき、急成長する。その後、林則徐などによるアヘン禁止の動きが盛んになると、今度は上海の不動産に投資を行うようになっていった。
Elias David Sassoon が開設した新Sassoon洋行はまず1877年にアメリカのAugustine Heard 洋行が破産すると、南京路外灘にある現在の和平飯店付近の土地を取得する。その後1900年までに上海市街地に29箇所の不動産を取得し、上海の不動産業界でその地位を確立していった。Elice Victor?SassoonはElias David Sassoonの孫の代になる。Elice Victor?Sassoon は第一次世界大戦中イギリス空軍で参軍して左足を負傷し、左足に障害を持っていた。爵位を世襲していたため、Sassoon男爵とも呼ばれていた。1923年にElice Victor?Sassoon は民族運動の激しくなったインドから、「冒険家たち」があつまる上海の地に足を踏み入れる。
新Sassoon洋行は創始者のElias David Sassoon が死去したあと、3代目のElice Victor?Sassoon が実権を握る。ここで、新Sassoon洋行は株式会社となり、不動産関係に集中的に投資を行っていく。1920年代に入って、新Sassoon洋行は破産物件を中心に、不動産を安く手に入れその勢力を伸ばしていった。たとえば、南京路と中山東一路の交差点にある和平飯店の緑の三角屋根の建物も、通称Sassoon大厦と呼ばれ、Elice Victor Sassoonが投資して建てたものである。
その一方で、新Sassoon洋行はまだ開発が進んでいない地区にも注目を集めていた。それが、現在の錦江飯店のある蒲石路(長楽路)と茂名路付近一帯だった。1920年代から1930年代にかけて、新Sassoon洋行は安い立ち退き代を住民に支払い、あたり一帯を開発していく。
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